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池田俊彦 (軍人) : ウィキペディア日本語版
池田俊彦 (軍人)[いけだ としひこ]

池田 俊彦(いけだ としひこ、1914年12月24日 - 2002年3月1日)は、昭和期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少尉二・二六事件に参加して栗原安秀らとともに首相官邸を襲撃し、彼らの中で唯一死刑を免れた人物として知られる。
== 経歴 ==
本籍鹿児島県大阪市で生まれる。東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)を経て1935年6月に陸軍士官学校(47期)卒業後、同年9月、陸軍少尉に任官し歩兵第1連隊付となる。
1936年、同期の林八郎少尉が栗原に共鳴して決起に参加することを告げたことから彼も参加を決意。二・二六事件では、第2小隊を率いて首相官邸を襲撃。同年2月29日を以って懲戒免官となり、裁判において首相官邸を襲撃した8人の将校の中でただ一人無期禁固の判決を受けた(他は死刑)。
千葉刑務所に収監。同じく収監されていた井上日召四元義隆橘孝三郎佐野学田中清玄に教えを受けたという。また朴烈事件朴烈とも出会って交友を結んだと回顧録に記している〔池田俊彦『生きている二.二六』(文藝春秋 1977年/ちくま文庫 2009年)ISBN 4480425721〕。
1941年12月31日に恩赦令により仮出所となる。翌1942年6月に日綿実業に入社し、社員としてサイゴンに渡った。
終戦後には田中清玄の紹介で 三幸建設に入社。また、処刑された蹶起将校たちの遺志を伝えるべく数作の著書を出版した。特に、晩年には東京地方裁判所の地下倉庫に二・二六事件の判決正文があることを突き止め、当時撮影・複写が許されない中で元被告人という立場を利用して一字一字筆写し、『二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』として出版した。これは二・二六事件の第一級と資料とされるものである。
1965年に20名が処刑された陸軍衛戍刑務所の跡地に建立された二・二六事件の慰霊観音像(渋谷区宇田川町)へは、亡くなる直前まで花をささげ、香を焚き続けた。
2002年三鷹市の病院にて脳出血により死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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